伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№573

教会学校通信

クリスチャンになるということ その7

         横山良樹

  週に一度、聖書を教えに行っている学校でときどきする問いかけがあります。初詣でに行ったりしますか?どんなお願いしますか?お賽銭いくら出しました?などなど。

  わたしは中学2年のときに九州に転校しましたが、住居が大宰府天満宮近くで境内と参道をぬけて駅まで行き、中学高校に通うことになりました。そんなわけで実に多くの参拝者―老若男女、修学旅行の学生、祭りの観光者、初詣客などーを観察することになりました。太宰府天満宮は初詣客が九州で一番、全国でも十指にはいります。飛び梅で知られるように2万5千本以上の梅が境内にあります。その枝にみんながおみくじを結んでいきます。絵馬もあって、これにどこそこ大学合格!のたぐいがたくさん書かれていました。一枚の絵馬にたくさんの願いを書いている人、学校の先生でしょうか、一枚の絵馬にクラス全員の名前を書いている人もいました。そんな話をして、生徒に、みんなも受験合格を願ってお参りとかした?と聞くと、けっこう手があがります。じゃあ、合格した後にお礼に行った人っている?これはだれも手が挙がりません。ちなみにその時、お賽銭いくらくらい出した?と重ねてききます。太宰府天満宮には正月に80万人以上が参拝しますが白布にお札をみることはそう多くはありません。100円玉、10円玉、5円玉(ご縁?)が主流です。うちの子どもに100円やるから本屋に行ってあれ買って来て、といっても嫌がるけれど、君たちはどう?断らない?  人間に対しても失礼でやらないような-わずかな額で大きなお願いをし、願いが成就してもお礼にも行かない-ことをして平気なのはおかしなことです。これではどちらが神様かわかりません。神様は人間のいうことをかなえるしもべみたいな扱いです。基本的に、日本の宗教は現世利益中心です。賽銭という言葉の「賽」は「むくいる」という意味で、「神から福を授けられたそのお礼としてまつりをする。お礼参りをする」とありました。教会でいうところの感謝献金に近いものですが、その意識はたぶんないでしょう。前回、献金をささげるコツは、「キリストの恵みに応えて、精一杯に」と書きました。それは神さまの恵みにたいする感謝の応答ですから、決まった額というのはなく、自分の信仰のセンス、喜びを覚える感性が問われるでしょう。わたしたちの信じる神様は「天地の創り主、全能の父」であり、独り子であるイエスを、わたしたちの救いのために下さった方です。生徒たちはおそらく神社に祭られている神を知らないのです。「知られざる神に」(使徒言行録1723)祭壇を築いて拝んでいたというアテネの人々と同じです。しかし、わたしたちはこの世界の創造主であり、独り子イエス・キリストを遣わして世を救われる方を信じます。それゆえにすべてを備えられる神により頼み、希望をおいて歩みます。この世界も、わたしもすべてが神に創られたものであり、神の恵みのご支配の中に保たれていること、愛のまなざしを注がれていることを主イエスの十字架と復活によって知らされているゆえに、わたしたちは神様と特別な関係を持って生きることへ招かれ、恵みを受け入れてクリスチャンとなったのです。

  わたしたちは大切な人のためなら喜んで時間とお金を使うのではないでしょうか。デートをし、プレゼントを贈って関係を深めていくのではないでしょうか。あるとき礼拝後に教会員と立ち話をしていたら、その方の聖書から封筒がぽとりと落ちました。献金と見受けましたが、その方は「これはわしと神さまとの約束だでな」と微笑って封筒を拾われました。ああ、この方は神様との特別な関係を生きておられる!と感心したことです。