伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№579

教会学校通信

受難節と祈り その2 

         横山良樹

ある教会員が自分はかみしもを着たような祈りしかできないと嘆いたことがありました。「かみしも」というのは武士の正装ですから、しゃちほこばった、他人行儀のお祈りしか出来ない様子をこう言い表したのでしょう。もっと率直に、神さまと語れたよいのにという願望もあったのではないかと推察します。ただこれは慣れもあるのだと思います。

はじめての人と話すときには緊張してどうやって声をかけたらいいか悩んだり、戸惑ったりするでしょう。しかし、何回か話して、お互いのことが分かってくればすぐに会話に入れるようになります。お祈りも同じです。一種の最適化というのでしょうか。はじめはぎこちなくても仕事に慣れてくればすぐに仕事に入れるようになるのと同じです。

さらに神さまがどういう方か分かってくるとお祈りの言葉も変わってきます。イエスさまは神さまのことを当時のことばで「アッバ」と呼んで祈ることを教えました。これは「父」という意味ですが、幼児の使う言葉ともいわれていますので、「かみしも」をつけた呼びかけではまったくありません。父と子という愛のまじわりの中で使われる言葉です。親は子どもから「お父さん」と呼びかけられれば嬉しいものです。そういう親密さをもって祈りにむかう姿勢をイエスさまは弟子たちに教えられたのでした。

 このように神さまは、わたしたちの祈りを聴くことを喜ばれますし、また祈りをかなえようとしておられます。ただ祈りは神さまにさしだされる欲しいものリストではないことは知っておきましょう。あれがほしい、これがほしい、あれをしてください、かなえてください、というお願いをすることはまったくかまいません。しかし、神さまがそれをいまわたしたちにくださるかどうかは神さまがお決めになることです。少なくとも、わたしは自分の子どもが、あれが欲しい、これが欲しいと言ったときに、子どもの願うままに与え続けたことは一度もありません。とくに基本的な生活習慣や、ものごとを筋道だてて考えることができない幼少期の間は、親は親の責任でもって与えるものをコントロールします。欲しいものを与えることでダメになってしまうこともあるのです。子どものことを考えれば、いまは与えないでおこうという判断が、親の配慮としてありうるのです。ですから、祈りがきかれないという事態も当然起こります。しかし、あとから考えてみれば自分が願ったのは違うかたちで、もっとよいものを頂いたことに気づかされることもあるのです。近道ばかりが人生の最短の道ではないということです。

 大切なことは、自分の希望がかなえられることよりも、神さまと親密な関係の中で色々な問題をとらえることです。神さまの言葉に照らして考えてみることです。そういう対話が深まっていくと、祈りの有り難さがわかるようになります。祈りは虚空にむけての独り言ではなく、対話であることが理解されるようになります。神さまを父と呼んで祈り、確かに受け取ってもらえた。ゆだねることができたという感覚のようなものが育つようになります。こうして祈ることによって、平安がわたしのうちに与えられるようになります。

 いまは教会の暦では受難節ですが、イエスさまもご自分の苦しみについて、神さまに取り去ってもらえないだろうかと祈っています。しかし、わたしの願いではなく、あなたの御心がなりますように、と祈られることを忘れませんでした。決して、わたしの願望をかなえてもらうための道具として神さまを見たのではなく、神さまは救う力をお持ちであることをわきまえた上で、神さまがわたしに与えようとしておられるものを受け取ることのできる落ち着きを求めたということも出来るでしょう。祈りの不思議な力を知らされます。