伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№566

教会学校通信

  😆 一年の計は礼拝にあり

子どもの頃、お正月をむかえると「一年の計は元旦にあり」という言葉を聞きました。今のみんなは「書き初め」なんてやるのかな。冬休みやお正月をぼけーつと過ごさせないための陰謀かもしれませんが、たしか正月の二日に手習いごとをさせられたものです。まあ、わたしの家は仏教徒の祖父母がおりましたから、そうした影響もあったかもしれません。「一年の計は元旦にあり」ということわざもそこで覚えました。「一年の計」の「計」は「計画」の「計」で、ばかりごとを意味します。その年の計画は元旦にたてるべきだ。まず初めに計画を立ててことにあたるべきだという意昧と辞典に書いてありました。これはいわゆる古くから語り伝えられている人間の知恵、世間の知恵ですが、キリスト者のわたしたちはこれをそのまま鵜呑みにするわけにはゆきません。計画を立てても「三日坊主」という言葉もあるように、実行が続かないこともよくあります。また早い話、こう書いているわたしが一年後のお正月に生きているかどうかもわかりません。縁起でもないことを言うなあと思うかもしれませんが、人間はかならず死ぬ存在ですし、しかもそれは年齢順に来るわけでもありません。

天変地異に巻き込まれる可能性だってあるのです。ですからどれだけ完璧な計画を立てたとしても、立派な地図を用意したとしても目的地に着けるかどうかはわからないのです。このひとつだけを取ってみても、「一年の計は元旦にあり」という世間の知恵は事柄の半分しか言い当てていないことがわかります。わたしたちは全能でも永遠でもありません。時間を支配して生きている存在ではありません。限りある命を貸し与えられて生きているのです。中世の修道院の挨拶は「メメント・モリ」(「汝、死すべき存在であることを記憶せよ」というラテン語)であったことからも分かりますように、明日はもうこの世界にはいないかもしれない。そこから与えられた今日という一日を大切に感謝して生きる姿勢が生まれます。ここをわきまえませんと主イエスのたとえ、おろかな金持ちが「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みじて、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言ったが、その夜のうちに取り去られるという出来事のようになってしまいます。御心ならば、今日はあれをしよう、これをしようということが貸し与えられた命を生きるわたしの真実なのです。そう考えると、いまわたしたちは新しい主の年2014年を目の前にみているわけですが、行くさきの知れない大海原に船出するような心細い気持ちになるかもしれません。自分でコントロール出来ないのだと考えると怖くなるかもしれません。でも心配はいりません。神さまがわたしたちのために、備えをして下さっています。飼葉桶に宿られた救い主がわたしたちに与えられているしるしです。神さまはわたしたちのために大切な独り子を下さいました。それほどまでに、この世界を愛し、わたしを愛して下さったのです。だから、必要なものはわたしたちに備えられることが信じられるのです。それを神様に聴くのが礼拝です。「信仰の父」と呼ばれたアブラハムは「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地へ行きなさい」と神さまから命じられて行く先も知らずに旅立ちました。それでも糸の切れた凧のようにならなかったのは「アブラハムは行く々で祭壇を築い」て、礼拝をしたからです。天地を創造し、歴史を支配される神様の恵みのご支配を仰ぎ、指示を受けているのですから、どんな時でも平安です。わたしたちも「一年の計は礼拝にありという一年を歩みたいものです。
横山良樹