伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
TEL:0569-21-3761

修養会が行われました

HUKAI伝道  私たちは何を信じ、伝えるか

深井智朗先生(金城学院大学)

 

はじめに

1)半田教会の伝道が全国に与えた励まし

知多半島にひとつの教会がまぼろしをみようと学生伝道に立ちあがった、知多奥田キリスト教センターは、全国の教会に勇気を与えた。

2)「学ぶこと」と「変わること」

小澤征爾さんと村上春樹さんの対談集を読む機会がありました。人間、年を重ねるとなかなか古いことを捨てて新しくなることはできません。柔軟さがなくなってきます。世界的に有名な小沢征爾さんはこの年になっても変われるんだと言っておりました。それは、自分で勉強して変わるよりも、若い人の指揮を見てそんな解釈もあるのかと啓発されて変われるんだと言っておりました。そこが彼の若さの秘訣でしょうし、次々と新しい仕事の原動力となっておられるんでしょう。
キリスト者は何歳になっても新しくなれるとパウロが教えているように、私たちの肉体は衰えますが新しくなれるということに修養会をする意義があるのではないでしょうか。

3)「伝道論」ではなく「伝道」

理屈ではなく、自分で本当に経験したもの、本当にいいものに出会うと私たちはだまっていられなくなるんです。 伝道論を学ぶのではなく、経験したものは生き生きと語れます。
神学生時代に漬物の行商のアルバイトを先輩に代行してくれと頼まれました。午前中はひとつも売れませんでした。昼食のときベテランの人にどうして売れないのか尋ねると、その漬物のサンプル食べたかと聞かれました。もともと漬物が得意でないので食べてませんと答えると、それじゃ売れないわなと言われ、食べてみると結構おいしいものでした。午後はサンプルをすすめ、おいしさをアピールしながら行商したら2個売れました。午前はいやいや食べもせず行商したので売れるわけありません、午後は自分が食べその味をアピールしたので売れました。伝道もこれと同じことです。自分で食べておいいしいと言い、伝道も教会にきて礼拝を守りこれだと思うものは確信がもて、さらに説明ができます。伝道とは本質的にはいい教会を作るということだと思います。良い礼拝を守るという事です。これ以上の伝道はないということです。

1.伝道はどこからはじまるのか、なぜ伝道するのか

1)「救われた喜び」からはじまる

救われた喜びとはなんだろうか?  聖書に聞いてみると伝道した聖書の人物はみんな失敗をしている。たとえばペテロは主イエスに「サタンよ引き下がれ」とか「主イエスを3度も知らないという」ように挫折を味わった人であります。私はこんなものだったと本人が語ったからこのように聖書に書きしるされているのではないでしょうか?しかしこのような私が復活の主に出会って全てをささげて伝道する。初代のローマカトリックの教皇にもなったのです。これがペテロの伝道だったんでしょう。ザアカイ は後にカイザリヤの司教になりました。ザアカイも昔あんな人間だった私を主イエスが招いてくれたから私は司教にもなったと自分を語り伝道したのです。

2)ペテロとザアカイの事例、そして私たちは?

ペテロやザアカイのように私たちも救われた喜び、信仰の確信を語っていかなければなりません。それが伝道の出発点だと思います。伝道は失敗から始まってるんですね。あらゆる人生の挫折が信仰の出発点であります。人間的な思いの挫折が伝道の始まりです。ルカ2章34節「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらされたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」倒すのも祝福だと聖書は語ります。私たちが違う道を行く時そっちは違うと主が倒してくださる。それも祝福と考えます。倒して必ずたち上がれせて下さいます。神は私たちの思いを越えてそれを倒して下さる時もある。弟子たちの例で言えば違う方向にいったのです。だから神は倒したのです。教会だってそういうことがあるかも知れません。しかしいきずまったところであきらめてはいけません、立ち止まってはいけません立ち上がらせてくれる神を確信しなければなりません。そこで立ち上がる時に新しい伝道が始まるのです。

2.私たちは知っているのか?何を伝道するのか

「いかに」ではなくて、「何を」

HOW TO ではなくて何を伝道するか、このことが大切です。何を語るかその確信は何か。これについて私たちが知っておかねばならない事は、そのために聖書を学び、礼拝をし、修養会をするのですね。我々の福音は主イエスが伝道を始めた時にこう言って伝道を始めました。マルコ1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これが主イエスの福音です。
日本のキリスト教会は神の国がくると言う福音をどれだけ語っているでしょうか?神の国が近いという信仰よりもこの世をどう生きるかとの信仰に重点をおいています。この世に悩みがあっても私たちは神の国に入ることができるんだという信仰の喜びがあるということで生きていけるんだとの確信をどれだけ語ってるのかが大切であります。 こういう事ひとつとっても何を伝道するか、礼拝をまもり、聖書を読む、聖書から学ぶということが大切なのです。一部抜粋