伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№568

教会学校通信

クリスチャンになるということ 序

クリスチャンになるとはどういうことでしょうか。もともとクリスチャンという言葉はシリアのアンティオキアの教会で、ナザレのイエスをキリスト(救い主)と信じた者たちに向けて使われた言葉だと使徒言行録に書いてあります。マタイによる福音書の最後には、大伝道命令とよばれる主イエスの言葉があります。いわく「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

この主イエスのお言葉にあるようにクリスチャンになることは、主イエスの弟子となることであり、そのためには洗礼を受けることが必須です。ときどきイエスを(心の中では)信じているけれども、洗礼は受けていないという人がいますが、それはこの主イエスの命令に反しています。洗礼は罪の悔い改め、そしてキリストに従って生きる者となる入信の儀式として位置づけられてきました。信仰を告白することは、イエスをわたしの罪のために十字架にかかられた神の子、救い主と認め、この方の弟子となることを公けにすることです。それは具体的には、この方の教えに従う中で自分の人格と人生を形作ってゆくことを意味します。それが弟子となるということですね。そして、その中心に信仰告白があるのです。聖書で最初にこれをしたのはペテロですが、「あなたはメシアです」(マルコ)、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ)、「神からのメシアです」(ルカ)と告白されています。ちなみに「メシア」はユダヤの言葉で、これを新約聖書の書かれているギリシア語に訳すと「キリスト」になるのです。  わたしたちの属している日本キリスト教団の規則では、信徒(「クリスチャン」と考えてもらえばよいです)とはバプテスマ(「洗礼」のことです)を受けて教会に加えられた者のことです。ここにあらためて、教会に加えられた者という表現が出てきますが、一匹狼のクリスチャンというのは考えられていません。狼ではなくて羊として生きるのがクリスチャンだからです。羊は目が悪く、羊飼いの声に導かれ、群れで生きる動物です。わたしたちは、羊飼い(イエス・キリスト)の声を聞いて、この方にしたがうことを言い表し、同じような羊たちとともに「召し集められた群れ」(これが教会です)に加わって生きるのです。このあたりの消息は「教会を母として持たない者は、神を父として持つことは出来ない」という言葉にも言い表されています。

さて、ここまででクリスチャンになるには、イエスを主と告白して洗礼を受け、教会につながって生きる者となるという、わたしたちが大切にしている筋道が見えてきたでしょうか。パウロに次の言葉があります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:9~10)。新共同訳聖書では「口で公に言い表して」と訳しましたが、口語訳聖書ではここを「口で告白して」と訳していました。これは新共同訳聖書のほうが上手にオリジナルのギリシア語聖書のニュアンスを生かしていると思います。そうです、問題はこの「告白」なのです。「告白」という言葉には、一種の気恥ずかしさのようなものがつきまとうように思うのはわたしだけでしょうか。そのあたりの問題を言葉の成り立ちから整理してみます(つづく)。

 横山良樹