伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№569

教会学校通信

クリスチャンになるということ その2

前回、クリスチャンになるとは主イエスの弟子となること、イエスを主と告白して洗礼を受け、教会につながって生きる者となるという教会の筋道を確認しました。しかし、考えてみれば、2千年前に生きたパレスチナの人物が、わたしのメシアであることを信じて、告白するというのは相当おかしなことです。自明の出来事ではありません。わたしたちの側からは到達不可能なことで、「聖霊によらなければ、だれも『イエスを主である』とは言えないのです」(コリント112章3節)とパウロがのべたように、信仰告白は、神様の出来事であると言えるでしょう。ペテロがはじめてイエス様をメシア、そして生ける神の子です、と告白したときも、イエス様は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:17)と言っておられます。このように神様の先行する恵みに導かれて、信仰の告白にいたるのが道筋です。それでは、わたしの方は何をするの?というと、やはりパウロの言葉に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ローマ10:9~10)という言葉があります。示された恵みに対しての、わたしの側からの応答の告白が待たれているのです。わたしは高校一年生のときに自分の口で信仰を告白しました。両親の希望で、すでに洗礼は幼児のときに受けていましたので、水をかぶることはありませんでした。時をへて後追いで洗礼の指し示す真実を、自分の口で告白したわけです。ところでこの「告白」という言葉がわたしたちには問題で、一種の気恥ずかしさのようなものがつきまとうように思います。ひとつにはわたしたちの日常生活の中で「告白する」という事態がかなり稀なことだからでしょう。手元にある類語辞典の「告白」の項目を見てみますと「隠していたことを打ち明けていうこと」とあり、類語として「打ち明ける・腹を割る・底を割る・胸襟を開く・吐露する・白状する・自供する・口を割る・泥を吐く」といった具合の言葉が並んでいます。ちなみに、この辞典では告白の用例は「愛の告白、過去の罪を告白、自分の無知を告白する」という具合です。敷居が高いわけです。              ところで新約聖書に使われているギリシア語では「告白する」は「エクスホモロゲオー」という動詞なのですが、この動詞のニュアンスは日本語のそれとは大きく違います。実は「ホモロゲオー」だけでも「告白する」という意味なのですが、それに押し出される意味の前置詞「エクス」を付加しています。「ホモロゲオー」は「ホモ=ひとつ」と「ロゴス=言葉・論理」の合成ですから、全部あわせた意味は、あまたある中から言葉や論理をひとつにする、そこへ押し出されるというのが聖書の「告白」の意味であり、内面を吐露するニュアンスの日本語とは違うのです。ですから、イエスをわたしの救い主と告白することは、世にさまざまある思想や、主義主張や、人物などもろもろの中から、わたしが人生を賭けて生きるひとつをイエスと定め、それを公けに言い表すことに他なりません。そのことによって一歩前に出るのです。「出る杭は打たれる」ということわざのとおり、家の宗教として仏教が、地域の宗教として神道がある日本では、この決断は重いものです。まさに「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地へ行きなさい」(創世記12章1節)との旅が、ここから始まるのです。しかし、それは一人旅ではなく、主とともに歩む旅であり、同じ信仰の群れと歩む旅となるのです。

わたしたちの教会が属している日本キリスト教団の規則では、信徒とはバプテスマ(「洗礼」のことです)を受けて教会に加えられた者のことで、そこで初めて聖餐に与ることが出来ます。ですから、教会のメンバーは、現住陪餐会員と呼ばれます。聖餐式に陪席する会員という意味ですね。教会の中心は説教者の立つ講壇ではなく、キリストの贖罪をあらわす聖餐卓です。この主イエスが整えてくださる食卓にわたしたちは日曜日ごとに招かれ、罪の赦しの宣言を聴き、聖餐によって整えられるのです。
横山良樹