さて、前回はクリスチャンになるということは、祈る人間になることだと書きました。神さまの呼びかけにこたえ、神さまに向けて祈る人になること。それは、わたしひとりという自己完結した生き方ではなく、いつも神様さまとの関わりのなかに招かれていることを覚えて生きる人となることです。「わたしは」、「わたしが」、ではなくて、「神さまは」、「イエスさまは」何を求めておられるか、どう行動されるだろうか、と対話しつつ歩む生き方です。すこし前にアメリカを中心に「W.W.J.D」と書かれたアクセサリーやTシャツが流行りました。これは「What Would Jesus Do?」の略で、「イエスさまならどうする?」というような意味です。こういう場合に、主イエスならばどう行動するだろうか、考えられるだろうかと問いつつ歩む。具体的には聖書の御言葉との対話を通してになりましょうが、こういう感性も大切だと思います。 さて、クリスチャンになると聖餐式に与る者となります。聖餐は教会のいのちに関わる聖礼典(サクラメント)です。カトリック教会は、七つの聖礼典を有していましたが、1517年の宗教改革以降、プロテスタント教会は聖書に根拠がないことを理由に、洗礼と聖餐のみを聖礼典とした経緯があります。洗礼はイエスを主と告白し、教会につながって生きる者となる悔い改めと新生のための聖礼典であり、生涯に一度きりのものです。これに対し、聖餐は罪の赦しの恵みを伝え、生涯にわたって与り続ける聖礼典です。ここで少し日本基督教団という、わたしたちの教会の属している教会の規則にふれておきますと、バプテスマ(「洗礼」)を受けて教会に加えられた者を信徒と呼びます。この信徒になって初めて聖餐に与ることが出来ます。ですから教会のメンバーは、現住陪餐会員と呼ばれます。聖餐式に陪席する会員という意味です。教会の中心は、説教者の立つ講壇ではなく、キリストの贖罪をあらわす聖餐卓です。この主イエスが整えてくださる食卓に、わたしたちは日曜日ごとに招かれ、罪の赦しの宣言を聴き(これが御言葉の説き明かしとしての説教)、聖餐によって整えられて派遣されるのです。教会によってはいつも聖餐卓に聖餐器具を置いている教会もあります。天国はしばしば祝宴にあずかる様子として福音書で描かれていますが、教会の礼拝に集うことも、神さまの招きによって引き起こされる恵みの出来事であり、終わりの日に起きることを先取りしてお祝いをしているということも出来るのです。最後の晩餐の有名な絵画のように、わたしたちも主イエスの赦しの食卓に招かれた客なのです。さて、ここまで書いてきてタイトルが「クリスチャンになるということ」というのが本当によかったか考えています。教会学校通信のテーマにこれを選んだのは、小学校2年生から高校2年生まで4人の子どもたちが洗礼を受けることになって、「クリスチャンになる」とはどういうことかを書いておこうと思ったのです。しかし、ここまで読んでいただくとわかるように、「わたしがクリスチャンになる」と決意するよりも先に、神さまの選びがあり、招きがあるということを繰り返し語ってきた気もします。救いは人間業ではなくて神業です。何もかもがわたしたち人間の意志や、気持ちによるというのであれば、こんなに不安定なことはありません。またすべてを人間の意志の力にしてしまうと、それこそ幼子の救いや、認知症になった人の救いはどうなるのかという問題があります。救いの確かさはわたしたちのうちにではなく、神さまの側にある。だから有り難いのです。そのゆえに「主われを愛す。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ」という信仰の筋道がたつのです。(つづく)
横山良樹