伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№572

教会学校通信

クリスチャンになるということ その5

 今回は、ささげる信仰について、ひらたくいえば献金について考えてみようと思います。わたしが信仰告白をしたのは高校一年生のクリスマスで、はれて教会の一員になったわけですが、その当時のわたしは献金ということがまるで意識にありませんでした。物心つく前から両親につれられて教会に行っておりましたので、教会学校にも幼小科から参加していたわけですが、そのころ献金は毎週、親からもらってささげていました。いま教会学校にきている低学年のおともだちも事情はかわらないと思います。未成年ですから、自分で働いてお金をかせいではいませんよね。でも献金というのは本来、わたしたちが神さまに感謝する応答のひとつで、ささげる信仰が、お金のかたちをとったものです。

「かみさまに感謝しましょう。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、かみさまはよいものをくださった。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」、いまも教会学校でよく歌うこどもさんびかですが、カッコの部分のよいものはいろいろなものがはいります。健康だったり、晴れた日だったり、雨だったり、兄弟だったり、姉妹だったり、仕事だったり、おいしい食事だったり、なんでもはいるのではないでしょうか。でも一番大切なのは、神さまがイエスさまをくださったことです。それはだんだんわかってくることだと思いますが、神さまが、たった独りしかおられなかった大切な自分の子を、わたしたちにくださったことで、どれほどわたしたちのことを大切に思ってくださっているか、愛してくださっているかが分かるのです。だから、感謝なのです。大切なものをくださった神さまをほめ、賛美し、感謝し、わたしからも精一杯のささげものをするのです、感謝の応答として。

 ゆずり牧師が以前、教会学校でしたお盆にのった少年の話が忘れられません。そこだけしか覚えていないのですが、外国の教会の話でした。礼拝の中で神さまの愛が説教され、それから献金の場面になりました。その教会はおおきなお盆をまわしてそこに献金をおいていくかたちだったそうです(わたしたちの教会は袋ですね)。するとある少年が、自分のところにお盆がまわってくるとそのお盆の上にちょこんと座ったというのです。インパクトのある話ですが、ようするに、その少年は神さまに自分自身をささげたのです。これは献金ではなくて、献身ですね。献金のときのお祈りで「わたしたちの献身のしるしとして、この献金をささげます」と祈ります。献金がささげる信仰のひとつのかたちといったのはこのことで、神さまのくださる愛、神さまのくださる恵みに対して、神さま、どうもありがとうございます、あなたにお応えして、わたしをささげます、というのが基本なのです。そして、そのささげるものは、わたしの声をささげます(賛美の歌をうたいます)でも、わたしの時間をささげます(時間はわたしたちの命です)でも、わたしの能力をささげます(オルガンだったり、奉仕だったり)でも、よいのです。そして、一部ではなく、わたしのすべてをささげますから、どうぞあなたのご用のためにもちいてくださいというのが、お盆に自分をのせた少年の感謝の応答だったのです。大きな恵みに感謝して、大きくささげたのです。これが献金の基本になる考えかたです。献金は、献身のしるしであり、神さまの恵みにたいするわたしたちの感謝の応答なのです。だから決まった額というのはありません。会費のようにいくら、とか、あの人がこれだけささげているから、これくらい、ということはないのです。献金は信仰のバロメーター(はかり)と言われるように、神さまの恵みにたいする自分の信仰のセンス、感性が問われるのです。(つづく) 横山良樹