山をめぐる信仰雑感
横山良樹
今年の夏、教会から夏休みを頂いて長野県を一遊してきました。そのなかで長野県側から黒部ダムを経由して立山に登ってきました。と言っても室堂ターミナルという標高2450メートル地点までケーブルカーやらトロリーバスなどで連れて行ってもらい、さらに往復4時間はかかるという立山(雄山・大汝山・富士の折立の3つをまとめていう)には登頂しませんでした。ただ山小屋に小学生がたくさんいたのにはびっくり。翌朝6時には食事をおえて雄山登頂に向かいました。あとで聞いてみると富山県の小学校はこの立山登山をかなりの規模で実施しているのだそうです。この話を富山県の牧師にふりましたら、笑いながら、富山県には立山信仰が根強くあって、事業所などを訪問しても立山の写真が多く飾られていること、富山県に台風の被害が少ないのも立山連峰が風を防いでいてくれるのだと(根拠もなく)思っているとのことでした。山の上はやはり別天地で、いわゆる森林限界を超えるとハイマツのような低木となり、お花畑があり(ほとんど終わってました)、でも珍しい蝶を見たりと下界とは異なる有難い時を過ごしました。山登りは、もともとは一種の「行」であり(修験道の山伏がいたりするように)、わたしたちが日常に生きている空間とは違う次元に肉体を引き上げてゆくことにより、さまざまな振り返りや、新しいビジョン(この場合は視界でしょうか)を得ることを目的としているように思います。みなが山の上でご来光を拝みたがるのも気持ちの問題かもしれませんが、そこに何か新しい出会いを期待してではないかと思います。今は平地から高地まで一気に運んでくれる交通手段がありますから、誰にでも登れるようになって敷居が低くなった反面、そうした「行」としての側面は薄れてレジャーとしての山登りが主流となりました。脱宗教化ですね。
2009年に聖地旅行でシナイ山に登りました。モーセが十戒を授かった山であり、その麓でイスラエルの民が神様と契約を結んだとされる山です。夜間登山でご来光を山頂で迎えました。そのときの文章がありますので一部引用します。「シナイ山で夜が明けはじめたとき、朝陽に照らされ、周囲の山肌が赤く浮かび上がった。日本のように緑の山というのではないから、山肌に釘でけがいたような細い道が幾筋も浮かび上がった。これを見て、なるほど山の上に登るのは、ふだん見ることの出来ない自分の歩いている道がどの方角に向かっているのか、それが命に向かう正しい道であるかを見下ろして確認するためのものだ、と思った次第。垂直の次元から水平の次元をチェックするということだったのだ。」
イエスさまもしばしば山に登られ、祈りのときを持っておられます。人界から離れて神様と語り、進むべき道を整える特別なときを持たれたのです。マタイによる福音書はとくにその傾向が顕著で、山上の垂訓(5~7章)にはじまり、山上の変容(17章)、そして山上での大宣教命令(28章)と、転機となる節目に垂直の次元が開かれて、新しいステージや、ビジョンが示される構成になっています。これはわたしたちの場合も同じで、聖日ごとに礼拝に集う行為が「行」としての山登りに近いと思います。ところで教会の敷居の高さが問題になり、敷居を低くするための工夫や努力が言われますが、それが平地と同じ高さになってしまっては意味がありません。人為的な障壁は取り除くべきですが、「山べに向かいてわれ目をあぐ、助けはいずかたより来たるか、あめつちの御神より、助けぞわれに来たる」(155盤)と歌われますように、神を仰ぐ礼拝だけは、垂直の次元として守られ、御言葉を戴いて日常(下界)へ戻るリズムを大切にしたいのです。