音吉をめぐる信仰雑感
横山良樹
みなさんは知多半島を一周したことはありますか。車を使わないと行きにくい場所なのですが美浜町小野浦海岸沿いに日本で初めての聖書和訳事業に参加した音吉・岩吉・久吉を記念する頌徳碑が立っています。先日53回目の聖書和訳頌徳記念式典がここで行われました。毎年、美浜町と日本聖書協会が交互に主催を担当しているのです。年々参加者がふえ、美浜町関係者、音吉顕彰会、日本聖書協会、愛知県の超教派の教会関係者らで130余名でした。 わたしの好きなことばに「船は港にいる時が一番安全である。しかしそれは船が造られた目的ではない」という警句があります。音吉・岩吉・久吉は小野浦出身で千石船にのって江戸まで物資を運ぶ仕事でした。しかし遠州灘で嵐にあい、船は遭難。1年以上の漂流をへて北アメリカに流れつきます。仲間の多くはその間に亡くなりました。波乱万丈のことば通り、海の難、風の難、ようするに自然災害にあってまたたく間に彼らの日常は破れ、非日常の世界に放り込まれてしまったわけです。日本は台風や、地震、津波、火山など自然災害に事欠きません。天災と呼んで日本人は対処していますが、まさに人間では、いかんともしがたい出来事によって人生が狂ってしまったのです。しかし、彼らを苦しめたのはそれだけではありません。漂着後、彼らはアメリカの篤志家に救われ、日本に送り返してもらうのですが、異国船打払い令により、鹿児島沖まで来ながら上陸を許されませんでした。モリソン号事件として日本史の教科書にも載っている有名なエピソードです。こうして音吉は日本(正確にはまだそんな国家はありませんが)からも拒絶をされるのです。天災だけでなく、政治までもが彼らの運命を狂わせ、人生をバラバラにしてしまったと言えるでしょう。彼らの落胆ぶりは想像するにあまりあります。こんなふうに波風の立たない人生と思っていたことが覆されることもあるのですね。ガリラヤ湖が嵐になって怯えた弟子たちの話を思い出します。 ところで宗教を英語ではReligionといいます。これはラテン語が語源で、「ふたたび(Re)結ぶ(Ligio)」という意味です。つまり苦難によってばらばらになってしまったわたしの自我、わたしの人生を意味あるものとして再びつなぎあわせる働きをするものが宗教という理解です。音吉らは宣教師ギュツラフに協力してマカオでヨハネによる福音書の翻訳事業に携わりました。これが日本初の和訳聖書(部分)として知られているのです。互いに言葉を突き合わせて神様の言葉を、日本語に置き換えていったのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、抽象度の高いヨハネ文書を訳すのは大変だったと思いますが、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」と冒頭を訳しました。この過程を通して、彼らは神様を、主イエス・キリストの十字架と復活を知りました。またキリストによって生きている人々と出会いました。船は旅をしなければなりません。「板子一枚下は地獄」という船乗りの言葉もあるように、嵐にあえば命を失う危険があります。しかし、音吉は荒れる海の底にあって不動の、人間を真に支えることのできる方、人間の苦悩に寄り添われる十字架の主を知りました。自分たちの苦しみを通して、我が事として知ったのです。
その後の音吉は漂流民の帰国支援や、通訳として日英和親条約の締結にも協力したことがわかっています(ちなみにイギリス側の通訳)。終焉の地はシンガポールで、お墓はここにあります。スコットランド人の女性と結婚し、イギリスに帰化し、音吉ではなく、ジョン・M・オトソンとして人生を終え、天の港に帰りました。