教会学校のお話(説教)について
横山良樹
先日、教会員が祈祷会の感話(証)について分かりやすく話すということを話題にしていました。脇で聞いていたわたしは、必ずしも分かりやすく話す必要はないのだけれど、と教会学校や、教会での話を念頭において口をはさみました。実は、わたしは分かりやすく話すのが大好きな人間です。これはわたしが昔、予備校や高校で教えていた前歴と関係しているでしょう。どうしたらローマ史を分かりやすく理解してもらえるか。中国史をぶつ切りではなく、トータルなものとして、そのダイナミズムを理解してもらえるか。いろいろな本を読んで調べて、理解して、系統だてて、納得のいくストーリーに落とし込んでゆく。そういう作業が好きでした。そのわたしが困ったのは文化史でした。世界史や日本史の教科書にはある時代の終わりに2~3ページほど、その時代の文化というのがまとめてあります。思想家や、作家、美術品、建築、文学など、みなさんも記憶があるでしょう。これが難物でした。理解しようにも大変です。ページぎっしりと人類の英知がつめこまれており、唯名論だの、スコラ哲学だの、性即理とか、助けて!いう感じです。これは理解して説明することを投げ出さざるを得ませんでした。手に余ったのです。そのかわりにわたしは、事物について暗記せよというのではなく、それについてわたしがどういう感想を持ったか、考えるかということを話すことで、事物の印象づけを行うという変化球を身につけました。それくらい、分かりやすく教えたいという気持ちの強いわたしなのですが、こと神様について、信仰については分かりやすく話すにも限度があると考えています。そもそも人間は、神様の考えることが分かるのでしょうか。神の子が貧しく、小さくなり、飼葉桶のなかに降られるというクリスマスの出来事は、当時のユダヤの人々には理解されませんでした。分からなかったのです。分かるには神様の助けである聖霊のとりなしとふさわしい時が必要でした。信仰の話を、わたしたちは神様がおられることを前提として語りますが、神様を知らない人はついて来れないところがあるでしょう。教会学校の教師をしていたとき、三位一体についてなんとか高校生に説明をしようと試みましたが、最後のところは手が届かないのです。理屈に分解できないのです。ここが宗教ですね。知識でも、情報でもない。神様の示して下さることを心を開いて、そのまま受け止める、つまり信じる。それによって、自分をゆだねるという向かい合い方しか接近のしようがないのです。だから、教会で話される聖書のお話、信仰の話が分からないことはあると思います。でも、その分からないところ、不思議だなと思ったところ、わたしはそうは思わないなと引っかかったところが、本当に大切なのです。そこが福音、神様の恵みだからです。
わたしの知人で、キリスト教主義学校で学んだ者がいます。クリスチャンではなかったし、進学校だったので、朝の礼拝の時間はいつも英単語の勉強をしていたそうです。3年間をそうして過ごした彼はそのまま卒業するのですが、ひとつだけ、マタイ福音書20章「ぶどう園の労働者」のたとえを覚えていました。朝6時から働いた人も、夕方5時から働いた人も同じ賃金をもらったという話が納得いかず、馬鹿な話と忘れられなかったからです。つまり分からなかったのです。ところが彼は就職した後で大病をし、仕事をやめなければなりませんでした。そして、そのとき夕方1時間しか働かなかった者にも同じ報酬を与えた神様の恵み深さが自分のこととして分かったというのです。彼はいま牧師です。わたしたちの分かる、分からないを超えて働かれる神さまの御言葉の不思議さを思います。