次週は礼拝後に「年長者を囲む会」がある。教会も例外ではないが世の中は高齢化社会である。かくいうわたしも半年後には後期高齢者となる。数年前70歳になる頃、耳鳴りに気づいた。脳に何か異常かと早合点して受診すると医師は笑いながらカレイゲンショウだから心配ない、という。言葉の意味がわからないでいると、高齢化、年寄り病ですよといわれ納得した。自分も老人になったのだと思い知らされた出来事である。自分はまだ壮年くらいのつもりだったのだが、本当は高齢化していると宣告を受けた。教会のヘルモン会や、地域の老人会や、ゲートボールのお誘いなど、すべてお断りしてきたのはまだ自分に老人の実感がなかったからであるが、いまは自分を高齢化社会の一員と認めている。友人と会ってもかならず体調不良の話に花が咲く。つづいてあと10年若ければなあという者もいる。しかし、わたしはそうは思わない。かりに64歳になれたとして何がいいが分からない。わたしは2014年74歳のわたしの状況を生きているので2004年に戻りたいとは思わない。第一、若返ったとしてもまたこの年まで生きれるかどうか持病もあり自信がない。また10年さかのぼればふたりの息子の状況も今のようではないし、何より、孫も生まれていない。そんな10年前に戻りたくはない。年寄りであることを認めて、体調不良も受け入れて、年相応の恵みをいただいて生きたいと思う。この年相応の恵みというのは曽野綾子氏の言葉でわたしも共感している。加齢を老化現象とは受け止めず、70には70の成長段階があり、成長の完成にいたるという。毎日を年相応の成長と思い、暗い夜の間も守られて、新しい朝、新しい命に生かされる幸いを感謝して生きたいと願っている。これは若い頃、元気な頃には感じ取れなかった恵みであり、喜びである。(文 よ)