公職を退いて7年になる。すぐにも暇になるかと思ったが、残務整理やら色々引きずって、今年の4月頃からようやく気持ちに余裕が出てきた。すると今度はごく自然に自分の83年の歩みを振り返るようになった。本当に不思議としか言いようのない神の恵み、導きのもとに生かされて今があることを感謝をもって覚える一方、御心に従うことの出来なかった自分の歩みを省みて心が疼く。ニネヴェに行って預言せよとの神言に背いて、タルシシュに逃亡したヨナの姿が自分と重なる。そもそも敗戦から医師を志した思いは、医療に一番遠い人のために働きますからお願いします、という祈りだった。わたしはまだキリスト教と出会っていなかったが、それが神様とわたしの約束だと思っている。しかし、わたしは思いに反して、生涯を大学で過ごしてしまった。この約束不履行に心を痛める日々のなか、パウロの第二・三回伝道旅行の足跡をたどるギリシア・イタリア旅行に出かけることになった。一行は27名だった。6日目の聖日をコリントで迎え、野外で小礼拝をもった。その日の説き明かしは詩篇102で、7つの悔い改めの詩篇のひとつである。「心くじけて、主の御前に思いを注ぎだす貧しい人の詩」の表題に心がひかれた。この詩の中で、「わたし」に囚われる思いが「主」に「あなた」に変わり、公けの祈りになってゆく。気づくといつの間にか野犬が二匹、円陣となったわたしたちの間に寝そべり、腹を見せている。受けた恵みの多さよりも、背いたことの重さに打ちひしがれるわたしと安気な犬の姿に生き方の違いを感覚的に示された気がした。慙愧に耐えないわたしの歩みであるがそこに囚われず、公けの祈りへ、神の愛を真実に世界が唱和する時のためにこそ祈らねばならぬと思わされた。こうして停滞していた自分のこだわりから脱しつつある(文 よ)