来年6月で定年である。誰もがいつかは迎える日が後8ヶ月でやってくる。よくここまでやって来たものだと思う。13年前、妻が他界したときは一番下の子はまだ保育園だった。両親、教会員、妻の友人らに支えられ、仕事をやりながら3人の子どもを育てあげ、上の二人は自分の道を歩みつつある。下も来年大学で手がかからなくなった。わたしの定年というより、来年は家族の自立の年といった方がふさわしい。わたしは子どもとずっといたいと思わないし、早く独立してほしいと願っている。子どもたちの生活の心配はしていない。問題は世の中でいう生活信条、わたしにとっては信仰である。まだ彼らは自分の言葉になっていない。礼拝には行かないが、自宅でお祈りはする。食前の祈りを聞いていても短いが心がこもっていることは感じる。神に感謝する気があることはわかるが教会に行くわけではないのでどうするか、これが第一。子どもたちは日本生まれ、日本育ちだがハーフである。特に喧伝していないのであるが、本人たちのアイデンティティとして、自分たちは何だろうという悩みはあると思う。子どもたちの認識では祖父は牧師で普通の仕事ではなくてかっこよく、父であるわたしはちゃらんぽらんで、フツーの家はこんなじゃない!という。金はない、酒は飲む、でも教会に行って校長をしている変な親父という扱いだ。フツーとは何かという問題はあるが上記に鑑みて、普通の家庭環境の中で育って来たのではないことは間違いない。これからどうなるかはわからない。キリスト者として育つかは神様のみがご存知であり、わたしの一番の祈りの課題である。現在、定年前の最後の自己投資で一年間日曜日に大学に通い始め、朝礼拝に出席ができないため、奥田夕礼拝に軸足を移して新しい企画を考えている。神様の許しが得られればと思う。(文 よ)