最近テレビで対談番組を興味深く見ている。先日の異母兄弟の対談では、兄はアパレル業界のトップ、弟は映画俳優、監督、社会奉仕で活躍しているのだが、兄は弟に君のやることは中途半端だと言い、弟は僕の生きがいは社会に奉仕することだと、互いの主張は最後まで平行線だった。またある時の対談は、芥川賞作家が自分の生きている理由を知るために作品を書き、残った作品が自分の存在を証してくれると語り、かたやエベレスト登頂した登山家は、若いときは高い山を目指したが九死に一生を得て、今は富士山の清掃を仲間とはじめ、それが生きがいになったと話していた。四人の自己実現の歩みを聞いたわけであるが、これら有名人でなくとも周囲に自己実現に努めている人は幾らでもいる。書道でも日展を目指して一喜一憂している人々がいるが、最近その内幕が暴かれ、失望したであろう。なぜ人は自分の存在をアピールしたいのか。「名もなく、忘れられた存在」ではいけないのか。知り合いの書家は日展をめざして奮励していたところ、牧師の夫から、君は「紙」に奉仕して、「神」に奉仕していないと言われて目が覚め、それから目的を変え、「聖句書道会」で活躍するようになった。その人から「あなたは何のために展覧会入賞を目指しているの」と問われて、つまってしまったことがある。現役時代は必要とされていたが、年金生活者となり、存在を問われなくなった自己の存在をアピールするためであろうか。だとすると今は自分で出来るが、かりに寝たきりになり、人の手を借りるようになった自分を肯定できるだろうか。人の評価は絶対ではない。社会奉仕をしても偽善と言われることもある。人の評価に自分を委ねることには絶望しかないと分かっていても引かれる弱い自分がいる。聖書の御言葉を拠り所として確かな歩みをしたいと願う。(文 よ)