昨年を振り返るとわたしにとっては篠田秀子夫人が亡くなったことが大きかった。なにしろ実母が亡くなるときにこれからは何かあったら教会のおばさんに連絡しなさいといわれたほどだ。結婚した後も、教会を訪れると以前のように食事が用意してあり、篠田先生がもう奥さんがいるからいいんだと言ってもお土産でもたせてくれる有り様だった。昨年こんなことがあったという。赤ちゃんを抱いたお母さんがたくさんの荷物を抱えてバスに飛び乗ったところ、胸に抱いていた赤ちゃんがミルクを戻してしまった。見て見ぬ振りのなかで小学2年の女の子が近づいて自分のハンカチで拭きだしたところ、皆も我に帰ったように席を譲ったりしたそうだ。こういうことが少なくなった。いまは小学校の子どもに無闇に声をかけると通報される時代である。お節介の出来ない時代にいつのまにかなってしまった。秀子夫人はお節介のかたまりのような人だったし、わたしもそうだ。それで今でも教会につながっておられる。夏期学校小学科で「よきサマリア人」を学んだとき、サマリア人の行いをどう思うか聞いたところ、「よけいなお世話」「なかなかいい人」「変わった人」という返事だった。子どもたちのとらえ方が、このようになってしまっていることがさびしい。今の世の中はお節介を排除し、変に親切にされると後が怖いよと大人が教えるような時代だ。しかし、教会はこの世のようではなくお節介のかたまりである。そういう関わり、交わりの部分がとても大切である。もっとお節介のすばらしさを発信したほうがよいのではないかと思い、つとめている。それがおばさんの後ろ姿から学んだことなのか、もとから性格なのか分からぬが、とにかく小学二年生の行いが美談の記事なるような社会ではいけない。もっと積極的に皆がお節介を発信してはどうだろう。(文 よ)