毎年3月の世界祈祷日に会う姉妹がいる。知多ルーテル教会員なのだが、わたしにとってはセーラー服姿で思い出す子、-といっては失礼なのだがー、中学に勤めていたときの教え子なのである。今年3月も、世界祈祷日で会ったときには明るい色の洋服と髪の色で元気そうに、せんせい!と飛びついてきた。家庭の事情もあって教会から離れていた時期もあったが、このところは教会に出席しているそうだ。その子が、わたしに会うたびに、先生のおかげです、という。しかし、それに相当するようなことをわたしは思い出すことができないのだ。担任でもなく、何かを相談されたという記憶もなく、教会に誘ったわけでもない。それなのに、いつも先生のおかげと言われ、わたしは申し訳ないが思い当たるふしがない。今年もあまりの元気よさに、この子にどう接していたかをあれこれ考えたが分からぬ。そのとき、ふと「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、みずからの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためです」(エフェソ2:8-9)という聖句が浮かんだ。そうだ、わたしの行いではない。たまたますれ違う機会が与えられ、わたしの存在が用いられたというべきか。神がわたしの存在を用いて彼女に働きかけて下さったのだということが初めて実感できた。そして用いられたことの喜びに何とも言えぬ嬉しさを味わった。わたしは神の手の中に生かされていること、御手が働いていることを気づかせていただいた。一年一度の出会いのなぞがようやく解決をみた。そして、今度は、わたしのほうこそ、おかげさまで、と心の中で言いながら二人で喜び合えるような気がしている。80歳をこえて諸事の衰えを実感するときに、この気づきを与えられた嬉しさよ。(文 よ)