伝道開始 1904年(明治37)の伝統的なプロテスタントのキリストの教会です。
日本基督教団半田教会
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教会学校通信№567

教会学校通信

🙄 テストは嫌だけど(笑)

1月、2月、3月は、いく、にげる、さる、とも言われるそうでなんだか慌しいですね。わたしもこの時期はいろいろな年度のまとめがあり、頭から発火しそうです。教会学校のみんなの中にも中学、高校、大学の受験を控えている人、また卒業前で武者震いしている人がいるかもしれません。そんなわけで今日はテストについて少し考えてみたいと思います。学生生活の試練ですね。小学校のときには小テストだったのが中学、高校になると日にちを決めての定期考査となり、大学も前期・後期にわけての試験でした。それからは、国家試験や、入社試験など、学校に入るため、職に就くための試験が行われます。学生の時代に受けるテストは習熟度といいますか、習ったことがどれだけ身についたかを問うものです。学習は反復が基本ですから(ようするに予習、復習)、それを定期的に繰り返して積み重ねてゆくわけですね。これの得意な人がいわゆる頭のいい子と呼ばれるわけですが、早い話が、人よりも早く、正確に、ただひとつの答えを見つけ出すのが得意な人たちです。これは生きる力や、人格とイコールではありません。偏差値の高い人が立派な人とイコールではないということです。人生で出会う問題に答えがひとつということはまれですし、神さまから貸し与えられた人生という解答用紙にどんな答案を書き込んでゆくかは、それぞれの課題です。隣の人の答案を覗き込んでも意味はありません。読み書きそろばんというように学生時代の勉強は、新聞から情報を正しく読み取ったり、様々な分野に興味を持つために必要な一般教養でしょう。世界を偏りなく見て判断するために必要なものです。大学以降は専門化が進み、自分の将来の仕事に必要な学力を問うものが中心で、国家試験などの資格試験が課されることになるでしょう。    

こうしたテストにどうしても人生の助走期にあたるみんなは何らか関わらずにはいられません。それは自分の適性を見つけ出してゆくための手段というか、一助なのです。どんな働きに召されているかを発見し、確かめていくわけですね。12月の教会学校通信に森田泰司さんとわたしが牧師となる献身の話を書きましたが、牧師になるためにも試験があり、そこでは召命が問われます。召命とは、使命に召しだされるということで、神さまがご計画に従ってひとりひとりを召しておられるという考え方によります。牧師は御言葉に仕える働きですが、そのことが自分の思い込みではなく、本当に神さまが呼びかけて下さっているかを確認してゆく作業が試験になります。ですから自分の外からチェックされる面接がとても重要です。また学科の試験を通して教会に仕えるために必要な学問を一定の成績で修めることが求められます。自分の内側にある思いを内的な召命といい、それを面接や筆記試験で客観的にチェックする手続きがあわさって牧師が立てられるというシステムになっています。テストが好きな人はあまりいないと思いますが、ひとつの商品が実際に世に出るまでも入念な耐久試験やチェックが行われます。聖書にも、神さまはその愛する者たちを訓練されるとあります。テストや試練は、わたしたちを試み(こころみ:心・見)ることで、新しいステージへと導く神さまからの招きと言えないでしょうか。わたしも30台前半でひと通りの試験を終え、もうテストとは縁が切れたかと思っていましたが、今年の4月から二年間かけて教員免許状の更新のために受講し、テストを受けることになっています。聖書の授業のために必要なことですが、記憶力や考える力が落ちていないか戦々恐々としています(笑)。
横山良樹